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    照高院宮道晃親王懐紙「詠暮春落花和哥」(個人蔵)
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  • 軸装一幅 江戸時代前期写
     道晃親王(1612-1679)は、後陽成天皇の皇子で後水尾天皇の異母弟。聖護院に入り落飾し親王を宣下された。園城寺長吏、三山検校をつとめ、のちに照高院に入る。茶道、書画、和歌をよくし、後水尾天皇より古今伝受を相伝した。


    松梅院類切(個人蔵)
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  • 軸装一幅 鎌倉末期写 本紙縦26.0×横37.3㎝ 極札等は附属しない
     松梅院切は、伝称筆者を邦看親王、或いは慶運と伝える定数歌の断簡。国宝手鑑「藻塩草」(京都国立博物館)に奥書部分があり、元徳二年(1330)正月六日の北野社法楽での詠作と知られる。
     松梅院切には、筆跡や歌題構成を異にする数種の断簡が知られており、それぞれ元徳二年正月六日北野社法楽和歌と一連の散佚定数歌の断簡と推測されている。本断簡もそうした資料の一つ。「続三百三十三首和謌中」の端作を持つ秋部の冒頭部分で、松梅院切・類切の書写内容を考える上で貴重な資料。


    「盛夏の路上の図」(『東都歳時記』)
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  •  『東都歳事記』は、『江戸名所図会』の斎藤月岑著、長谷川雪旦・雪堤画による、江戸の年中行事の解説書である。天保9年(1838)に刊行された。本図 は、6月の項に掲げられており、江戸時代初期の歌人松永貞徳の歌が添えられている。通りを歩く人々が思い思いの格好をして夏の一日を過ごしているありさま が、ゆかしく感じられる。
     右上のくずし字を翻字すると、
       盛夏路上の図
       行路夏衣
        何ごとも
        時ぞと思へ
        夏きては
        にしきにまさる
        あさのさ衣
           貞徳
    となる。歌意は、次の通り。何であれ旬というものがあると思いなさい、夏が来たなら、錦織物よりも麻の衣を着る方がまさっているのである。


    「隅田川の雪」(『江戸名所花暦』)
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  •  〈翻刻〉    隅田川の雪     橘枝直    すみだ川水のうへにもふる雪のきえのこれるは都鳥かも  〈解説〉  本図は、文政10年(1827)に刊行された、江戸の代表的な行楽案内書『江戸名所花暦』に収められている。「隅田川の雪」と題されたこの画像には、遠景に右から待乳山聖天宮・浅草寺・吾妻橋などが、また近景には渡し船が描かれている。船頭が蓑・笠を身にまとっている姿からは、寒々とした中にも風情が漂う。右上に記された和歌は、江戸時代中期の国学者・歌人である加藤枝直のもので「すみだ川水のうへにもふる雪のきえのこれるは都鳥かも」とある。渡し船の右後方に群れている水鳥は都鳥で、それが雪の白色と紛れるさまが詠じられている。


    藤原良経像画賛色紙(個人蔵)
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  • 縦21.3糎×横18.0糎。
     本点は、藤原良経の画像を描き、その和歌と野々口立圃〈1595-1669)の発句を添えたものである。
     良経の和歌は『新古今和歌集』に「春日社歌合に暁月の心を」という詞書で、「天の戸をおしあけがたの雲間より神よの月の影ぞ残れる」(摂政太政大臣)として収録されるもので、第五句「影ぞもりくる」に異同がある。
     立圃の句は『烏帽子箱』巻第二夏部に「月みえぬ天の磐戸やあふぎ箱」(立圃)として載る。
     現存は僅かに一枚のみ、他に一連のものと考えられる作品の存在は報告されていないようであるが、本来はやはり幾枚かで一組であったものと想像される。
     擦れや欠損など痛みが激しいものの、着衣(狩衣)には金泥で描いた模様が僅かに残っている。
     なお『俳画のながれ 立圃から芭蕉へ』(財団法人柿衛文庫・福山市立福山城博物館、平成7年9月)には立圃の歌仙絵として「三十六人歌仙奉納額」や「三十六歌仙」、「休息歌仙」などが収録されているが、本点のように像主の和歌と立圃の発句を一緒に記した類例はなく、興味深い作例である。
     〈翻刻〉
       立圃/月見えぬあまの/岩戸か扇箱
       後京極/天の戸を/をし明かたの/雲間より/神代の月の/影そ/もりくる


    松姉小路基綱短冊(小川剛生蔵)
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  • 縦35.2糎×横5.3糎。藍内曇短冊。川勝宗久の極札を添える。
     〈書誌・解説〉
     姉小路基綱(1441〜1504)は参議家綱男。権中納言従二位に至る。飛騨北部を実力で支配した飛騨国司家の出身で、戦国大名としての顔も持つ廷臣歌人である。後土御門天皇の歌壇の中心的存在で、明応四年(1495)には『新撰菟玖波集』を清書するなど、能書としても知られた。家集に『卑懐集』『飛州黄門百首集』などがあり、後世にも評価が高かった。その遺墨は比較的多く伝存する。
     この短冊の年代は未詳であるが、飛騨から京都歌壇に復帰した文明十年(1478)、38歳以後の詠と思われる。
     〈翻刻〉
       夏衣  花染の跡も露けきたもとかな/かろきを夏の色香とおもふに 基綱


    伝津守国夏筆『堀河百首』断簡(兼築信行蔵)
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  • 縦22.1糎×横6.8糎。料紙は楮紙。古筆了延の極札を添える。
     〈書誌・解説〉  『堀河百首』「藤」題部分の断簡。ツレの切が、三井文庫蔵古筆手鑑『筆林』に収録されている(表50)。
     伝称筆者の津守国夏(1289〜1353)は住吉神主で、『続千載集』以下の勅撰歌人。
     〈翻刻〉
                  紀伊
       藤のはなきしのしらなみあらへとも
       色はふかくそにほひましける
                  河内
       むらさきにいくしほそめしはなゝれは
       いろふかゝらむいけのふちなみ


    伝寂恵筆『時代不同歌合』断簡(久保木秀夫蔵)
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  • 縦23.5糎×横14.8糎。楮紙。朝倉茂入の極札あり。
     〈書誌・解説〉
     後鳥羽院撰『時代不同歌合』の断簡で、現在のところツレの存在を聞かない稀覯の一葉。
     百二十三番左の1首は『拾遺集』などに見られる恵慶法師の歌であり、右の1首は『堀河百首』(ほか『千載集』などにも入集)の藤原基俊の歌である。
     伝称筆者の「卜部寂恵」は鎌倉時代後期の歌僧。石見切(『古今集』断簡)や寂恵本『拾遺集』など筆蹟資料が豊富に伝わり、それらと比較して当該断簡も寂恵本と認めてよいと思われる。
     〈翻刻〉
       百二十三番
          左
        あまのはら空さへさへやわたる覧
        こほりとみゆる冬のよの月
          右
        木のまよりひれふるそてをよそにみて
        いかゝはすへきまつらさよひめ
       百二十四番
          左          曽祢好忠


    伝衣笠家良筆御文庫切(兼築信行蔵)
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  • 縦29.7糎×横5.1糎。原装時の紙継ぎあり。極札は古筆了延、裏に「自詠 丁未七(了延)」と記す。
     〈書誌・解説〉
     御文庫切は鎌倉中期頃のいわゆる反御子左派歌人のひとり、 衣笠内大臣藤原家良の家集『後鳥羽院・定家・知家入道撰歌』の断簡で、家良自筆の可能  性も想定されている重要資料。
    新出の当該断簡は、うち69番歌(新編国歌大観番号)に該当するもの。今後の詳細な検討がまたれる。
     〈翻刻〉
       きみか世のちとせの秋のありかすは/のへといふ野辺にをけるしらつゆ


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