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コラム・エッセイ

和歌文学会のあゆみ 藤平春男


 和歌文学会の創立は昭和三十年六月二十六日であるが、佐佐木信綱博士を会長として十七名の顧問を戴き、諸大学の和歌研究者等を多数委員とし、委員中の若干名を常任委員とした。その常任委員のうち十名程が実質的な中心であったが、その人々は個人的な親交を温め、親睦を旨とする集いを作り、回覧雑誌を作って「コーポラス」と名づけたりしていた。

 世話役は当時NHKにおられた片桐顕智氏(『明治短歌史論』の著作がある)で、明るくて世話好きの上に仕事柄多くの人を知る片桐氏は、和歌文学会のシンポジウムを放送にのせて、学会の資金に提供したりして、学会草創期に大きな貢献をされたのであった。勿論最初から全国の研究者に呼びかけたが、呼びかけの主体は主として「コーポラス」の人々にあった。そのメンバーは片桐氏と同期の東大卒が多く、江湖山恒明・片桐顕智・釘本久春・伊藤嘉夫(立正大卒)・臼田甚五郎(国学院大卒)・窪田章一郎(早稲田大卒)・五味智英の方々で、吉原敏雄氏もそうだが早逝され、逆にやや遅れて岸上慎二(日本大卒)氏が加わったと思う。さらに池田弥三郎・木俣修・高崎正秀の三氏をこれに加えると和歌文学会結成の中核ができる。当初の会則や組織の案は文部省の釘本氏がほぼ作ったようである。

 以上のような人達はいずれも常任委員となり、学会活動の主要な事業を立案された。二大事業の『和歌文学大辞典』(明治書院)と『和歌文学講座』全十二巻(桜楓社)の企画をし、編集委員となって学会初期の大きな事業が完成するのである。『辞典』が編集委員会名儀にせず個人名を列記しているのは、出版社の要請に拠る。『辞典』には別冊の「歌人系統図」のほか「和歌史年表」「万葉集作者部類」「勅撰集(別に新葉集)作者部類」などが付せられているが、これはその一部を除き、二十代から三十代にかけての若い研究者グループの手に成る。

 その人々の多くが後に和歌史研究会という研究サークルを作って、研究を新しくし、やがて季刊の会報を百号に至らしめるメンバーであるが、誕生後間もない和歌文学会であるから、その内部で自分達の問題意識やその方法的実践を培おうとし、資料についての情報交換をしたのであって、分派活動の意識は全くなかったといえよう。しかし中古・中世の新しい研究の実質は、この世代の成長と共に結実していったのである。

 コーポラスの集いは諸大学から集まった人達の隔意ない交流をまず生み出していたが、それは次の世代や更に次々代にも学閥的な閉鎖性を排除していった。特に学会活動の初めから盛んに行われた例会(月例研究発表会、毎回ほぼ三名)及びその発表をめぐる質疑や意見開陳は和歌文学会の特色として大いに成果を挙げた。ほぼ相前後して始まった諸学会が、年二回の大会と機関誌の一、二回刊行を主要事業としていたのに対し、大会は年一回であるものの、機関誌「和歌文学研究」は例会などの成果の集積として見るべき質量を示していったのであった。大会における講演やシンポジウム等はほぼ他学会と同様である。ただ万葉学会や上代文学会が別にあって、その方面が手薄なのと、近代文学会の成立に伴い近代関係者が少ないのが、学会として終始弱点だったといえるかもしれない。

 『和歌文学大辞典』は昭和三十一年一月から編集がスタートし、三十七年十一月完成刊行されるが、編集委員は伊藤嘉夫・臼田甚五郎・江湖山恒明・木俣修・窪田章一郎・五味智英・高崎正秀各氏の七名、当初から推進力となっていた片桐顕智氏は途中転勤で編集委員を辞退された。次いでの大事業は和歌文学会編の名で刊行される『和歌文学講座』全十二巻(桜楓杜)で、昭和四十四、五年に刊行されるが、辞典の編集委員に加えて市村宏・大久保正・岸上慎二・北住敏夫・片桐顕智・清水文雄・谷山茂・峯岸義秋・峯村文人・山崎敏夫の諸氏を交え、各巻を分担し、責任編集者となっている(木俣修・高崎正秀の二氏を除く)。草創期の中核の人々の企てた意図がここに二大事業の完成としてほぼ成し遂げられたが、会員数も創設の折の百四十三名が、この頃には約四百名を越えていた(現時点では約一千名余に及んでいる)。

 その間に研究の動向にも勿論変化が生じた。初期の中核メンバーの方々は既に戦時中に一家を成していたが、そこに限界があり、次の世代にとっては文献学的検討が必ずしも精緻でないことや、史的論証により多角的な資料的裏づけを求めうることが考えられたのである。それはまずは機関誌掲載の論文の質に対する疑問として生じてきたのである。そこに有る若さからくる性急さも今から見ればあきらかだが、戦後の諸家からの資料流出もあり、それ自体の文学性は乏しくとも間接的に和歌史や歌論史の構想を変えうる性質を持つ資料も数少なくはない。

 その辺の要求が顕著に若手中心の機関誌編集委員会を通じて具体化するのは学会結成後十年位たった頃からで、その眼で見れば、『講座』には旧来の研究色が濃く、そこに新しい眼で斬新な和歌史を切り開く傾向も混じっていたということになろう。『辞典』は担当編集委員や執筆者によりさまざまで、一定の傾向をうち出しているとは見なしがたいであろう。学問は進歩する面と確乎とした面と両面があるから、それでいいのだが、新視野での展望やより周到精緻な検討もなくてはならない。和歌文学会の歴史は若手を中心につねにそれを先取りしてきたといえるのではあるまいか。学会成立に貢献された方々とそれを助けつつ新しい方向を探求していた当時の若手はいつの間にか年齢を加えてより新しい人々に交替しつつも、時には相互に論戦を交えて次の時代の学会を発展させていくようになる。

 草創期と発展期の境界は、『辞典』刊行の昭和三十七年、機関誌でいえば第十四号あたりに求めうるのではなかろうか。若手や地方在住者の論文がその頃から目立つようになるのである。新制大学院の発足は若い研究者の急増と併せて女性研究者の質量共の向上をもたらしたが、学会の場でその成果を広い場に提出し、討論に委ねる効果は男女を問わず極めて顕著であり、やわな研究は機関誌編集委員会を主とする厳しい評価にさらされて脱落して行った。

 草創期に中核メンバーを助力し、かつ独自の研究を進めていた若手は、最早若手ではなく、より若い大学院生などを指導する立場に立ち、機関誌「和歌文学研究」にも育成された人々の生新味溢れる論文が多くなって、大会・例会の研究発表にも斬新な切り口を示したり、周到精緻な考証を提示するものが年を追ってふえている。昭和五十一年第三代会長久松潜一博士が逝去されるが(第二代は窪田空穂会長、昭和四十二年没)、以後は事務局校から代表委員が出ることになり、会長制は廃止されている。それからの数年間が現在に続く新しい時期の確立期という感触である。
  昭和四十年頃から研究の主流は多角的になり、やがて関西支部の発足によって年四回(現在は三回)の研究発表が各大学の廻り持ちで行われると、研究の多角的な傾向はより顕著になる。新幹線で関西例会に関心がある発表を聞きに行き、或いは上京して白由に問題関心のある発表会に参加することもできるのであるから、地方的に偏向した研究に陥らない博い視野が若い研究者の眼の前に展開して、各自の課題の深化に資する刺激も小さくはなかったようである。
 学会発足当初から行われた夏期講座は一般に公開されて啓蒙に資する所が大きかったが、二十年間続いたのち中絶し、和歌文学の世界をいろいろな面から論じた『論集』が年を追って刊行された。『和歌文学の世界』は統一性を欠く所があったので必ずしも売行は順調ではなかったが、近年に至って主題をしぼっての論集として最新の研究を盛りこんだ内容のものに改められた。既刊分についていえば、「和泉式部」「西行」「藤原定家」のように重要歌人にしぼったもの、「古今和歌集」のように歌集の重要なもの、それに「和歌とレトリック」や「〈題〉の和歌空間」という和歌史を通じて表われる特質に関わる注目すべき諸現象の検討などがテーマとしてとりあげられている。執筆者にはいずれも中堅少壮の第一線研究者を選び、深く掘り下げることが求められていて、各テーマの和歌史上に持つ問題が鮮やかに示され、学界の水準を高める成果が各篇に十分に盛りこまれているといえよう。

 和歌文学会のほぼ四十年に達しようとする歩みがどの辺まで研究を推し進めてきたかは、まず例会・大会の研究発表、機関誌「和歌文学研究」の多方面にわたる研究成果の公開、さらには「論集」におけるテーマ別の集約などがあるが、表面に出ない所での研究者同士の意見・情報の交換や出身校別を超えた協同研究の成果があるし、その間に自覚する研究者としての自己評価も見のがせないであろう。そこで知る新たな研究課題をも具体的に捉えることもできる。ただ人真似ではいけないのが当然で、基礎は自分の在学したり、在勤する研究環境の中で十分に養われるべきであろう。一定の問題の捉え方やそれを追求する方法に流行めいた模倣性があっては、学会にも弊害があるといわなくてはならない。若い大学院生などに時折その弊害を認めうるように思うが、それは学会自体の研究姿勢の厳しさによって正す必要がある。研究の進歩が若手の研究人口の増大によってもたらされてきたことは既に述べた如くだが、それがつねに自戒を伴ってきたことをも知る者の一人として、現状に些かの危惧の念のあることを付記しておきたい。

 学校別を超えた研究サークルとして和歌史研究会が成立したことは初めに記したが、次代には和歌文学輪読会が生まれ、かなりの成果を生んだ。厳しい相互批判の場として成り立つならば、今後もそういうサークルが生まれていいと思うのである。今もより小範囲小規模の研究サークルが学会を媒介として生まれ、成長しているかもしれない。それらには些かの懸念も抱いていないのである。会員数が一千名を超える現状を見ると、あまりにも狭い専門別ではないような、相互批判の場としての研究会ができて、自由に参加できるならば、学会が実質を実らせつつ発展するのに役立つに違いないと思う。

(『和歌文学研究 特別号 和歌文学会四十年のあゆみ』より 平成7年6月)

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